―――青い空。白い雲。
 ――――――眩しい太陽。空を飛ぶ鳥。
 真上に広がる世界は、とても大きい。
 ―――決して届くことのない空。
 手を伸ばしても、伸ばしても。そこに届くことは決してない。
 そんな当たり前の事実に気付いたのはいつのころだろうか?
 小学生―――いや、幼稚園、―――もしかしたら、もっと小さいころのことだったかもしれない。
 小さいころ、俺が見ていた世界は、今も何もかわらない。
 手を伸ばしても、背伸びをしても―――成長しても。きっと届かない大空に。
 俺はずっと、憧れていた。―――いや、今も憧れているのかもしれない。
 
「暇・・・」
 隣に座る彼女は、チョコレートをかじりながら、しかしどこか楽しそうに呟いた。
「・・・暇だな」
 蒼空を見上げながら、俺は答えた。
 ―――肌で感じる風が強い。これだと、すぐに校門に並ぶ桜も散ってしまうだろう。
 
「さくら」
 どこかを見たまま、俺より1歳下の少女はどこかを指差していた。
 そのやっぱり幼い横顔は―――どこか楽しそうだ。
「飛んでるねー」
 俺は無言でそれを眺め、そのまま上に視線を戻した。
 ―――チャイムが鳴り響く。
「授業始まるぞ、後輩」
 ん~、と唸りながら、少女はのんきに板チョコをかじっている。
「授業始まるぞ、先輩」
 呑気にそう言いながら、彼女は2つ目のチョコレートを取り出した。
 太るぞ、とは口が裂けても言えない―――いや、言わない。
 ただ、そうだな、と返しながら、俺はまた、空を見上げた。
 
 今日も、俺の日常は―――何も変わらずに過ぎていく。
 
 
 
 くだらないものが世の中にはたくさんある。
 出た名前だけしか見られない学校。生きる上で全く意味のない授業。
 そして何より、―――俺の、人生。
 くだらない―――くだらなさ過ぎて、笑えてくる。
 夢。希望。それが俺にとっては死ぬことだけだった。
 つまらない日常を繰り返し、自分以外の他人のために働いて、体の節々が痛み、死ぬ。
 そんなつまらない人生を送るくらいなら、今すぐ死んだほうがマシだ。
 これから先の人生に、光なんてない。希望なんてない。
 ただ黙々と働いて、寝て。また働いて、社会の歯車としてその機能を全うするだけ。
 ただ、それだけの人生。そんなの、こちらから願い下げだ。
 
 だけど、残念なことに、今の俺はつまらない人生を送っている。
 黙って授業を受け、低レベルな会話に付き合い、そして死んだように眠る。
 これがくだらない人生以外になんと言えばいいのだろうか?
 だからこそ、俺は異常を求めた。
 そう―――屋上のような―――「異常」を求めた。
 
 そう、ちょうど―――あの日も授業をサボって屋上で空を見ていた。
 空はいい。風は気持ちいいし、空に浮かぶ雲も、悪くない。
 
 昔から一人でいるのは嫌いじゃなかった。むしろ好きなくらいだ。
 考え事を邪魔されることもなく、馬鹿らしい話題に付き合わなくてもいい。
 俺の場所はクラスにはない―――この屋上の給水塔の上だけだ。
 ここには人が来ない―――この屋上が立ち入り禁止になっているからだ。
 屋上への扉は鍵がかかっていて、本来生徒は入ることができない。
 ―――そう、本来なら。
 
 クルクルとキーホルダーごと鍵を回しながら、空を見上げた。
 今日も―――俺の人生は、何も変わらない。
 いつもと同じ通りに立入禁止の屋上で空を見上げ。
 それに飽きれば授業に出る。それだけの毎日だと。
 そう、思っていた。
 
 ―――ガシャン。
 俺の真下から音がした。屋上の鍵が開けられたのだろう。
 扉が鈍い悲鳴をあげながら開かれていく。
 
 教師、か。誰かに見つかったか?
 まぁいい。―――屋上で見つかっても、退学にはならないだろう。
 体育のオヤジか、保健室のババァに見つかると、説教が厄介だな。
 それ以外の教師は、担任含め適当にごまかせば何とかなる。
 そう思い、珍しい客人が入るのを、下を眺めながら待つことにする。
 
 だがしかし、その予想は大きく裏切られることになった。
 
 扉の隙間から頭だけが出てくる。長い髪の女だろうか。
 俺の記憶では、髪の長い教師は、保健室の白髪のババァ以外にはいない。
 だが、その頭は明らかな黒色で、屋上の風に持ち上げられて綺麗になびいていた。
 
「おい」
 とりあえず声をかける。
 少女はきょろきょろとしていたが、やがて上を見て、びっくりしたかのような顔をした。
 
 胸に着けているリボンの色で、1年生だと気付いた。
 顔はまぁ、そこそこ可愛い方だろう。
 胸は―――いや、言及しないほうがいい。それがお互いのためだ。
 おとなしく制服を着ているくせに、屋上なんてアウトローな場所に来るのは、不良への憧れなのか好奇心が強いだけなのか。
 初々しさの残るその後輩は、手に購買のビニール袋を下げていた。
 
 しばらく、俺と少女の視線が交差する。
 なんとなく―――俺に鍵をくれた兄の言葉を思い出していた。
 
「ひとつ、鍵があることは誰にも知られてはならない」
 少女はきょとん、としている。
 そんな少女に目もくれず、携帯の液晶を確認する。もう昼だ。
「ふたつ、卒業した後、3年以内に屋上の鍵を在校生に与える」
 そして、屋上のルールはもうひとつ―――。
「みっつ―――鍵を持つもの同士は、この秘密を共有しあう」
 そう言いながら、はしごを降りて少女の前に立つ。
 不思議そうな―――困惑したかのようなその表情を見つめながら、俺は続ける。
「この3つが屋上のルールだ―――おっと、屋上にようこそ」
 そのまま少女の脇を通って、扉を開ける。
「あの・・・」
「飯」
 たった一言―――そこに「俺に話しかけんな」という意味をこめて、階段を降りた。
 
 ―――。
 
「あのころ、すごく柄悪かったよね」
 初々しさの消えたあのころの少女は、やはりこうして授業をサボっている。
 のんきにチョコレートをかじりながら、楽しそうに笑っている。
「うるせぇ」
 そう言いつつ、否定しない自分がいる。
「今も変わってないね」
「―――ここから叩き落してやろうか?」
 少し考えて、満面の笑みで切り返す。
 こいつは、俺を本当に先輩だと思っているんだろうか?
 なんだかんだあった後、このタメ口になり。勝手に俺のストックコーヒーは呑み。挙げ句、ダメ出しまで受ける始末である。
「まぁまぁ、落ち着きなよ、先輩」
 ずずず、と缶のお茶をすすりながら、左手のチョコレートを顔の前に突き出してくる。
 俺に歯形の付いたチョコを食えと?
「いらん」
 そのまま後ろに寝転び、気持ちいい風にあたりながら、目を閉じた。
 
 ―――。
 
 食堂で昼飯を食って、屋上に戻ると、少女はすでに居なかった。
 少し、悪いことをしただろうか。
 とりあえず、指定席に戻って、街を見下ろす。
 
 視界に映る小さな街に、なぜか兄の言葉が頭に響いた。
「鍵は全部で5本ある」
 ―――5本。
 つまり、誰かがスペアキーを作っていない限り、屋上には5人来れることになる。
 4歳年上の兄は、俺に託したのだ。バトンという名の鍵を。
 何故この仕組みが作られたのかはわからない。
 ただ、ひとつだけわかるのは、兄はこの鍵を渡し、俺に何かを伝えようとしたのだ。
 それが何かは、きっと教えてはくれないだろう。
 
 入学当初、鍵を使って屋上に上ったことはなかった。
 それだけ楽しかったというわけでもない。
 ただ―――最初はまじめにやろうと思っただけだ。
 
 半年が過ぎ、10月―――気付けば俺はここに居た。
 大それた理由もない。ただの気まぐれ、兄の言葉を思い出しただけだ。
 単なる気まぐれで訪れた、この誰も居ない屋上に、たったひとつの自分の場所を見つけた。
 雪の日も、風の日も。
 それから俺はここで過ごすことが多くなった。
 
 だけど、俺以外の人は見当たらず、たった一人で過ごしていた約4ヶ月。
 初めて今日、俺以外の4人の内、1人と出合ったのだ。
 もしもう一度会うことがあれば―――なんとなくだが、この1年は、去年のつまらない1年とは変わる。
 そんな気がした。
 そんなことを考えながら空を見ていると、5時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
 
 ―――ガシャン。
 
 ギギギ、という音を立てながら、どっかで見た頭が下から見える。
「よう」
 びくっ、として、さっきのように俺を見上げる。
 そんなに怯えることもないんだが・・・。
「授業、終わったのか?」
 さっきと同じようにきょとん、とした顔で俺を見る。
 
 そうか、こいつはアレに似ている。
 何も知らない無垢な子猫―――まさにそっくりじゃないか。
 初々しいというよりか、呑気なんだろうな。
 
 昼に数本買っておいた缶コーヒーを軽く投げる。
「わっ!」
 ぱしっ、と受け止めて、やはりきょとんとした顔でこちらを見る。
 そんなに見られても困るんだが・・・。
 
「―――桜」
 なんとなく、恥ずかしくなって、新入生たちを吐き出す西門を見る。
 西門の脇の咲き誇った桜から、ふらふらと花びらが舞っているのが見える。
「飛んでるな」
 ―――この季節。
 学校生活の始まり、新生活をイメージさせるようなこの桜が、好きだ。
 何か、新しいことが起きそうな予感を感じさせてくれる。
 このつまらない日常が変わる―――変えられる予感がする。「あの・・・」
 少女がコーヒーを両手で持って困惑している。
「そこからだと見えないか?」
 そういいながら、横に少しどける。
「ここから見てみな?」
 校門を出て行く新入生を見ながら語りかける。
「あいつらは自由だよな」
 そう、限られた自由―――校則の中に縛られた自由。
 そんなものが自由だというのだろうか?
「呑気なもんだ・・・」
 高校生になりたての後輩たちに送る言葉にしては、おそらく相応しくないんだろうけど。
 カンカンカン、という音を立てながら、はしごを上ってくる少女。
 きっと、彼女もすぐに『高校生』になるだろう―――俺みたいに。
 
「わっ・・・」
 隣に座った少女は、髪をなびかせながらコーヒーの缶を開ける。
 俺の指定席に、俺以外の人間が座る日が来るなんて。
 ―――ある意味、革命だ。
「花見にしちゃ、ちょっと遠いか」
 ま、花見なんて所詮、桜見て何かを食う。それだけの行為だ。
 そんな意味だと花見と言えなくもない。はずだ。
 無言でポテチの袋を開け、そのまま後輩の前に出す。
「こんなもんしかないけどな」
 彼女が、少しはにかんだような笑みを見せた。
 ―――。
 
「ね?」
 いきなり少女が問いかけてくる。
「先輩は、なんであの日、ここを譲ってくれたの?」
 絶対に購買の袋からチョコレートを取り出しながら言うセリフじゃないことを言い出す。
 別にいいけど。
「ま、気分だな」
 答える俺の手には、やはり缶コーヒー。
「鍵持ってるなら、あんたと俺は『同じ』だからだ」
 本当は、ちょっと違う。
 たぶん、寂しかったんだろう―――『一人』で居ることに。
 あの頃も―――今も。俺はクラスになじめないでいる。
「先輩と同じー・・・」
 呑気な少女は、3つ目のチョコレートをかじろうとしている。
 さすがに言うか。
「太るぞ?」
 
 ゴツン!
 
 思うんだ。
 何も、グーで先輩を殴ることはないじゃないかと。―――。
 
 それからちまちまと、少女は屋上に来るようになって、俺とも会うことが増えた。
 会ったら「おう」とか「やー」とか、軽い挨拶を交わし。
 そして、何か飲み食いして物思いにふける。
 たまに、ぽつりぽつりと会話をすることもある。
 それも、音楽やニュースの話ではなく、「食べる?」だとか「眠い」だとかそんな会話だ。
 いや、下手したら会話ですらないのかもしれない。
 
 未だにお互いの名前は知らないし、おそらく、これからも知ることはないだろう。
 それでも、きっとはっきり言えるだろう。
 彼女が一番の友人であると―――。
 
 ―――。
 
「6時間目始まるぞ?」
 言ったときにチャイムが鳴る。
「んー」
 満足そうに3つ目をかじっている少女が答えた。
 ―――そのとき。
 ―――ガシャン。
 
 ギギギ、という悲鳴を上げながら、扉が開く。
 そうか、もうそんな季節だった。
 頭だけ出して、きょろきょろと見ている短髪。
「おい」
 頭がこちらを向く。―――少女か。
 びくん、としながらも、俺をじっと見る。
 もう、潮時だろうな。
「ひとつ、鍵があることは誰にも知られてはならない」
 少女はきょとん、としている。
 だが、気にせずに俺ははしごを降りていく。
「ふたつ、卒業した後、3年以内に屋上の鍵を在校生に与える」
 カンカンカン、という音を立てながら、ゆっくりと床に向っていく。
 そして、屋上のルールはもうひとつ―――。
「みっつ―――」
「鍵を持つもの同士は、この秘密を共有しあう」
 短髪がはっきりとした口調でそう言った。
「ルールなら知ってます」
「そうか」
 べつにどうでもいい。
 なにせ、あって、無いようなルールだからだ。
「それじゃ、教室戻るわ」
 新入生に背を向けて、俺は屋上からの階段を下りた。
 
 ―――その日を最後に、俺は屋上には行っていない。―――。
 
「おい」
 スーツ姿の男の人が、いきなり話しかけてきた。
「お前、ここの新入生か?」
「え、ええ、そうですけど・・・」
 何だろう?もしかして、不審者なのかな?
「あ、あの・・・」
「おまえにこれを託す」
 そう言って、男性は一本の鍵を差し出してきた。
 
「えっと・・・」
 すごく、反応に困るんだけど・・・。
 そもそも、なんで?
「これはここの屋上の鍵だ」
 そう言いながら、彼は僕に3つのルールを教えた。
 屋上のルール。それが、5人しか入れない屋上に入る、唯一の条件。
 
 僕に鍵を渡した彼は、最後に「ありがとう」とだけ言って、満足そうに帰った。
 新しい高校で、とても不安だったけど。
 ―――だけど、なんだかがんばれる気がする。
 
 校門の桜は、綺麗に花びらを躍らせていた。
 
 (fin...)