次のページ→


 ――それはまるで音楽のない音楽劇(オペラ)だった。
 月明かりが支配する鬱蒼(うっそう)と茂った森の中で、その空間は明らかに異質な空気を漂わせていた。濁(にご)った紅いフリルドレスの少女が真ん中にひとり。長いブロンドの髪が、夜風に煽(あお)られて踊っている。その周囲を黒いスーツにサングラス、髪は短く切りそろえ整えられており、まるでどこかのスパイ映画に出てくるエージェントのような姿をした男たちが、一定の距離を保ちながら囲む。その数は十数人。全て同じ格好、近づくのは同じタイミングで連携を取っている。さらにそこから数メートル離れた距離に月明かりに僅(わず)かに反射する光がいくつかある。取り囲んでいる男たち、つまり『排除者(エリミネーター)』のスナイパー部隊だ。
「大人しく投降しろ!」
 その中のひとり、スーツの男たちの中で唯一、銀髪の男が怒鳴った。髪を切りそろえた男たちのなかで、後ろで縛った背中まである長髪と、跳ね上がった前髪、さらには銀色のピアスがよく目立つ。彼のかけているサングラスの奥からでも見える狼のような鋭い眼が、少女の一挙一動を見逃すまいと注視していた。
 と、金髪の少女の足元から、紅い何かが揺れながら球を作る。ものの数秒で赤い液体が彼女を覆う。まるで意志を持ったかのように荒れ狂う波の弾が、主を護る盾のようにその少女の周囲に展開された。
 さらに、その高さは、徐々に上がっていき、大人をまるまると飲み込んでしまうであろう高さの壁を形成する。
「なんなんだこれは!」
「陣形を乱すな、早く捕まえろ!」
「銃が効かない! なんだこれは!」
 少女を囲んだはずの黒い服の男たちは、一様に焦っていた。複数人での制圧行動。今回の標的はたったひとり。彼らは、失敗するはずがないと踏んでいたのだ。
 銃弾が壁にぶつかると同時にゆっくりと吸い込まれ、接近した排除者たちがそのまま波に吸い込まれ打ち上げられていく様子を見るまでは、彼らはこのミッションを簡単に達成できると確信していた。
「おちつけ! 波に近づくな、俺がやる!」
 鋭い眼光で波を見つめる。と、波がみるみると膨れる。破裂音。そして飛び散る液体。だが、液体の壁は崩れることはなく、その遮光性を保っていた。相手が見えない。連続的な破裂音があたりに響くも、液体が飛び散るだけで、飛び散った液体ですら、意志を持っているかのように壁に戻っていく。それを見ながら彼、硝煙(しょうえん)の薫風(くんぷう)とも呼ばれた男は舌打ちをする。相性が悪すぎる。全く勝ち目がみえない。
 
 と、突如として目の前の壁の下部分から上に向け、ゆっくりと色が変わる。赤色から透明へ。まるで舞台の幕を上げるかのようなその動きに、思わず目を奪われる。
 その先には、少女がその瞳を閉じながら、優雅に頭を下げていた。光の屈折率を無視するかのようにはっきりと見えている。そう、まるでそこには「幕」などないかのように。まるで、今から舞台公演でも始めるかのように。優雅なその一礼に見とれていると、透明な範囲がひろがっていく。その反面、背景のように後ろの波の色が、黒く染まっていく。否、濃い赤だ。ついに上まで透明に変わったところで少女はゆっくりと顔を上げた。開けられたその瞳は、鮮やかな鮮血の紅。
 少女は笑顔で手をあげる。その動きに合わせ、彼女を中心に覆う球は、その高さを崩した。勢いよく、津波のように男たちに襲いかかる。
 相対する黒い服の男たちは、次々に津波へ飲み込まれていく。薫風はとっさに飛び退り、さらに地面を「爆破」させる。衝撃で数メートル吹き飛びながら、波をしのぎ、自らも負傷しながら木の枝へと捕まる。
 楽しそうにその場でくるりと回り、少女が両手を掲げた。と、波が再び彼女の周りに集まる。まるで彼女を中心とした赤い竜巻でも発生したかのように、血液が渦を巻く。それを満足そうに眺めた後、彼女は両手を振り下ろす。途端に、まるで何事もなかったかのように竜巻が消えた。瞬きを数回。鈍い音を立て、まるで雨のように黒い何かが降り注ぐ。黒服のエージェントたちだ。
 と、目の前に落ちてきた黒服を蹴り飛ばす。
 そこには、一変の情けもなく。黒服は血を撒き散らしながら。通常、曲がり得ない角度に腕を曲げながら吹き飛んでいく。
 散る。飛ぶ。砕ける。
 ひとり蹴り飛ばし、隣に降ってきたひとりを裏拳の要領で殴り飛ばし。さらに上から降ってきたひとりを投げ飛ばし、後ろに降って来たひとりも回し蹴りの要領で蹴り飛ばし。
 壊れ。崩れ。倒れ。
 立っているのは少女だけだ。
 少女はやがて、薫風が木の枝にしがみついていることに気がつく。目が合い、思わず背筋が寒くなるのを彼は感じた。だが、どうすることもできない。
 彼女は笑いながら、地面に転がった黒服を掴み。そのままボールでも投げるかのように軽々と薫風へ投げた。
 風を切る音を感じながら、避けられないことを察する。
 先程の爆風で骨がやられたのだろう。身体の節々に激痛が走った。
 彼の脳裏に、一瞬迷いが生まれる。「爆破してしまえば」という考えを否定しながら、甘んじて黒服を受け止めた。「何か」が折れる音が身体の中から聞こえる。
 そのまま地面に転がる。
「おい、しっかりしろ!」
 声に反応はなく、すでに彼の部下は事切れていた。
 身体中の痛みに耐えながら、なんとか頭だけをあげる。気がつけば目の前ほんの数歩先に少女がいる。
 いつの間に接近していたのだろう。音すら聞こえなかった。気配すら感じなかった。動きすら見えなかった。
 目をこらし、相手をじっと観察する。これから自分を殺す殺人鬼の顔を、眼に焼き付けておこうと思った。
 
 月明かりに照らされるその瞳は。
 まるでルビーのように紅かった。
 長いさらさらとした金髪が、夜風に吹かれ輝く。
 それは、あまりにも綺麗で。あまりにも可憐で。
 死ぬ間際に見た男の瞳には。
 まるで天使のように映った――。
 
「託すぞ、我が友」
 振り上げられた脚を見ながら、自らの死を覚悟する。その上で、最後に呟く。もちろん、その声に答えるものなど今はいない。
 言葉を残し、彼は少女の足で肉塊へと変わった。
 虫を踏み潰した子供のように、少女が楽しげに笑う。
 飛び散ったはずの血液は、しかし彼女のドレスも靴も、決して汚すことはない。
 満足したかのように、彼女は両手を上げる。それに呼応して波が大きくなる。そのまま両手を振り下ろすと、人だった彼らに向けて雨を降らせた。
 
 しばし無音の世界が訪れる。
 最初から何も無かったかのように。
 在るのは彼女の散らす朱い雨。
 聞こえるのは鮮血の雨音のみ。
 話し声も。人工的な音も。存在せず。
 ただ、雨に濡れぬ少女が声を出さずに嗤(わら)うだけの世界。
 黒服の男たちなど、まるで最初からいなかったかのように。
 その雨はこの舞台の主演女優を濡らさない。その赤は彼女を汚さない。
 ただ唯一、照らされた月明かりと、雨粒で乱反射した光だけが、彼女を染める。
 彼女は笑顔で月を見上げる。鮮血の噴水に染まる朱い月を。
 それは、ある種の芸術だった。
 森。雨。そして月明かりに輝く少女。
 崩れた男。腕のない肉塊。飛び散った躯たち(むくろ)。
 ――鮮やかなほど綺麗な、殺戮(さつりく)という名の芸術だった。
 再び手を上げると、少女を中心に渦ができる。これもまた、少女の目の前は透明、少女の後ろは濃い赤色の壁だ。最後まで戦った人間たちに向け、少女は舞台の幕を閉じようとしていた。手の高さに合わせ、その幕がおろされていく。
 だが。
 
「くだらない」
 
 世界に雑音(ノイズ)が生まれた。顔をあげる。その音の意味を理解し、思わず歯ぎしりをした。
 彼女は雑音の発生源を探す。この舞台にふさわしくない音は、消さなくてはならない。
 
「くだらなさすぎる」
 
 また、音がした。少女の後ろからだ。
 それも、上の方。木の上だろうか? 枝の上? ちょうど壁の後ろ(舞台裏)の方だ。確認しようと、振り返り、渦の目の前だけを透明にしていく。
 真ん中から縦に透明な線を。それを少しつづ左右に広げ。まるで舞台が横に開いて、さらに隠された後ろのステージが見える仕掛けのように。
 
「とんだ茶番ね」
 その声とともに、決して破れることのない舞台の幕が、透明な舞台の背景が切り裂かれていく。スニーカーで幕を切り裂きながら、その舞台には決して似合わない、小豆色のジャージを着た少女が空から現れる。
 髪は短髪の黒髪。暗闇と同じ黒い瞳。その顔には、今、どんな表情も浮かんではいなかった。
 完璧な世界に、完成されたはずの舞台に、雑音を入れられた。舞台まで台無しにされた。あのまま幕を降ろしていれば、綺麗な芸術として完成できたのに。赤い目の殺人鬼は、顔を歪(ゆが)め震える。だが、乱入はまだ許せる。相手が礼節を持ったスーツやタキシードであれば。ドレスでもいい。二人の少女がドレスで相手と殺し合う。なんて素敵なことだろう、と殺人鬼は思う。だが、気品のない格好で。それも、舞台にそぐわないジャージなんかで。この綺麗な死体の舞台を。
 よくも。よくも。よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも。
 整った顔が怒りに歪む。それを自覚し、さらに怒りが湧き上がる。よくもこんな顔をさせてくれたな、よくも!
 声にならない雄叫びをあげる。もう舞台どころではなかった。
 だが、そんな少女にお構いなしに、右足で着地をし、衝撃を殺すようにその場で前転したジャージの少女は続ける。
 距離は数メートルもないだろう。互いに手を伸ばせばその手が触れるか触れないかの距離。その距離でしっかりと立ち、左足だけを下げる。
 両腕に金属製のトンファーを持ち――だが構えない。
「あんたを止めないと。これ以上の被害は困る」
 また雑音。殺人鬼は震える。怒りに。激情に、そのまま身を任せ。天使の姿をした悪魔は天へと叫んだ。
 突如、天使の足元から槍が生み出される。赤く歪な形の槍。そのまま天使の身体を鮮血が飲み込む。
 飲み込んだ鮮血が固まり、黒く濁った赤色の鎧と化す。戦乙女へと変わった天使へ少女は笑いながら、呟いた。
 ――はじめましょうか。
 その声は、音にはならない。だが、乱入者へは伝わったのだろう。
 
 ジャージのチャックを一気に下げ。
 黒髪の乱入者――優衣はジャージを脱ぎ捨てる。英文字が入ったオレンジ色のシャツを夜風になびかせながら、トンファーを今度はしっかりと握りこむ。
 ついに、舞台の幕は下り始めた。