←前のページ           次のページ→


 少女は、ひとりで泣いていた。
 気がつけば、見たこともない森の中。時折聞こえる狼の鳴き声や、鳥の羽ばたき。木々のざわめきが、ただでさえ心細い彼女の心を、より一層震え上がらせていた。
 綺麗な朱い空は、あっという間に黒に染まっていく。影が伸び、だんだんその数も深さも増していく。
 
 少女は、名前すらなかった。
 あるいは、あったのかもしれない。しかし、それを思い出せないのであれば、ないのと同じだ。
 
 少女は、家族すらいなかった。
 あるいは、いたのかもしれない。しかし、その存在を憶えていなければ、いないのと同じだ。
 
 ――記憶喪失。
 まるで遭難しているかのような状態で、そんなことに気付けるはずもなく。
 まして、少女はそれに気付くには、あまりにも幼すぎた。
 
 夜の帳が落ち、森がその闇で隠そうとする中で、月だけが光を与えた。
 訳もわからず、ただ泣き叫ぶことしかできなかった少女も、ようやくこの時になって考え始める。
 
 歩こう。
 ただ、前に。進もう。
 この場所は、よくない。
 
 その直感ともつかない何かだけが、彼女を突き動かした。
 歩く。速歩き。もっと疾く。もっと。
 恐怖のあまり、気付けば幼いその子は、ただひたすらに走っていた。
 無理もない。見知らぬ土地で、行く宛てもなく彼女は全てを奪われ、たった一人だったのだから。
 
 鳴き声が木霊する。
 狼の。まるで獲物を狙うような。仲間を呼び集め。喰らうための。号令が。
 少女は急ぐ。どこにもない出口へ。どこにもない居場所へ。
 
 走る。疾(はし)る。駆(はし)る。
 次第に、靴以外の音がすることに。それでも気がつかないふりをして。
 息も辛い。
 だけど。逃げる。何かから。
 ただ。走る。泣きながら。
 
 鳴き声に囲まれ。
 ようやく足が止まる。
 呼吸が乱れ。地に膝をつき。
 
 目の前には大きな狼。毛並みは整えられており、灰色の毛が月の光で輝いて見えた。金色の鋭く尖った目が、ただこちらを見つめる。
 周りからも人ではない何かの目線が突き刺さる。
 彼らの声が少女には確かに聞こえた。
 「お前を今日の晩飯にしてやる」、と。
 
 怖い。
 少女の中にはそれしかなかった。
 獰猛な、鋭い牙で、頭から食べられる。
 身体を抉られ。腕をもぎ取られ。足を斬られ。
 そんな最悪の結末が頭に浮かび、手が震え、体が震え。
 気がつけば、その場に崩れ落ちていた。
 だけど、その狼から目を離すことができなくて。
 恐怖が、彼女の限界を超えていた。
 
 一瞬、宇宙(そら)が見えた気がした。
 世界が反転したと錯覚する。そのまま急速に視界が色褪せていく。
 身体が浮き上がる感覚を覚える。体全体が、何かふわふわとしたものに包まれた気がした。
 それに少女は安らぎを覚える。
 だんだん遠のく意識の中、彼女は幸せそうな笑みを浮かべていた――。