――二月。
春にはまだ早い、冬のこの季節。
そして、俺が十二月の次に大嫌いな季節がやってきた。
二月。この月は、日本人にとっては大きなイベントがふたつもある。
まず、二月三日の節分の日。
これはなんの問題もない。今更、説明も必要ないだろう。
ただ豆をぶん投げて、恵方巻きを黙々と食べる。それだけの祭日であり、恵方巻きの値段以外は好きなイベントのひとつだ。
いや、節分はいいんだ。
問題は――
「バレンタイン、ねぇ……」
そう、二月十四日に毎年行われやがるイベントのことだ。
――バレンタインデー。
まるで血で血を洗う戦争でも起きそうなその日は、ローマ帝国時代、ウァレンティヌス司祭が、兵士の自由結婚禁止政策に反対したせいで処刑された日と言われており、一九二〇年に初めて日本で箱根駅伝が開催された日であり――。
――そして、女性が好きな男性にチョコレートをあげる日である。
直訳すると、『リア充生産デー』である。全くもって忌々(いまいま)しい。あぁ忌々しい。
くそ、滅びろ、リア充め。
「はぁ」
ため息をつきながら、コーラを身体に入れる。うん、やはりコーラはうまいな。
なんでこんなにこの二月という季節が嫌いかって、当然バレンタインがあるからだ。
バレンタインさえなければ、俺は全裸で奇声を挙げながら豆まきをし、三十センチぐらいのでかすぎる恵方巻きだって黙々と食うぐらい二月を好きになるだろう。
それぐらい、バレンタインがもう、憎(にく)くて憎くて仕方がない。
じゃあ、なんでこんなにバレンタインが嫌いなのか。
たとえばだ。高校生くらいまでの男子なら、男子校でもない限り、クラスメイトの女子とか、なんか血の繋がらない降って湧いた姉妹的な存在から貰えることを期待するだろう。
会社員という社会の歯車的存在にでもなれば、部下や同僚からたくさん貰えるだろうし、彼女とか結婚して奥さんでもいれば、必ずひとつは貰えるだろう。
最悪はアレだ、母親とかからもらえるだろ。それで多少は惨(みじ)めな目に合わなくても済む。俺はチョコレートをもらった自慢ができるわけだ。大団円。第一部、完だ。
だが、しかし。そうは問屋が卸(おろ)さない。
俺が何故、このバレンタインという日が嫌いかと言えば。
それはもう二十四歳にもなって、ニートのひきこもりで。
たまに外のコンビニに行けば、店員や客の目が冷ややかだったり。
親の金とたまに届く食糧(しょくりょう)で生活しているくせに、自分は何もやりたいこととか、仕事とかがなくって。
挙句、幼馴染で大学院生の大家からは。
「ちょっと~? 家賃滞納(たいのう)は困るんだけどな~!」
こんな風に、扉を何度も叩かれながら、毎日のようにないものを払えと迫られているからだとか。
「彼女いない歴=童貞歴=年齢」だとか。
あと、バレンタインにチョコをお袋以外から貰ったことがないだとか。それも実家に帰ってないからここ数年貰ってないだとか。
バレンタインに靴箱に手紙が入っていて、行ってみたらドッキリでチョコレートどころか、卒業まで笑い者にされたからだとか。
そんな理由じゃない。断じて違う。おい、違うと言ってんだろコノヤロウ!
バレンタインでチョコを貰えなかったら、悪いか!
バレンタインでチョコが貰えない男は、ドッキリを仕掛けられた揚句(あげく)に卒業まで後ろ指をさされて笑われなきゃいけないのか!!
バレンタインに一人でコンビニに行ったら、捨てられた子犬でも見るような目で見られなきゃいけないのか!!
くそ、なんか、余計に惨めになってきた。
とにかくだ。そんな人間性を無視したバレンタインという忌々しいイベント如(ごと)きで、男の価値、人間性、その他もろもろを決めようとするその習慣が、俺は大ッ嫌いだ。
「ねぇ~? 居るのはわかってるんだけどな~? 早く出てきてくれないかな~」
もはやチャイムすら鳴らさない。しつこく幼馴染が扉を叩いている音が、未だに聞こえてくる。
だけど、今日は絶対に表に出ない。出るわけにはいかないのだ。
――こんなはずじゃなかったのに。
二十四歳といえば、社会人として立派に働いて、彼女とか同僚とか友達とかがいて。
うまくいけば、後輩ができて仕事を教えたりとか。
重要な仕事を、任されたりされなかったりするのかもしれない。
この俺、宮瀬(みやせ) 涼(りょう)だって、そんな『立派でかっこいい社会人』として、大変で、楽しくて、充実してる毎日を送っている。はずだった。
……はずだったんだ。
現在好評ニート中、就職先どころか夢もないこの俺が。仕事をこなし、彼女とデートし、同僚や友達からはリア充だとか言われながらも酒を飲みかわし。
そんな存在しえない妄想と共に、このクソみたいなくだらない世界で、毎日家賃を踏み倒しながらも、無駄に長すぎる時間をなんとか潰している。
――こんなはずじゃなかった。
なんで俺はひきこもっているんだろう?
なんで俺は1日中、パソコンの前に張り付いているんだろう?
有名ではないけれど、そこそこの大学に進学して。
そこを無事に卒業して。さらに大きくはないけれど、とある会社の内定をいただいて。
本当だったら今頃は、妄想通りの生活をしている――はずだった。
内定取り消し。一瞬、その言葉を聞いて、夢を見ているのかと思った。
卒業式前日。俺はある事件に巻き込まれた。簡単に言えば喧嘩だ。
ただ、あの時の事件に巻き込まれたことを別に後悔はしていないし、結果的に警察からは感謝状だって貰った。
だけど、それは結果的に『事件が解決してから』、のことである。
「申し訳ありませんが、今回の内定の件は取り消しとさせていただきます」
そんな感情すら感じられない事務的な電話の声が、今でも俺の耳に焼き付いている。
それから俺の人生は真っ逆さまに堕(お)ちていった。
正社員、派遣、バイト――その全ての面接に落とされて。それも人柄で落とされたんじゃない。
「卒業してから、なぜ何もしていないのか」と聞かれただけで、あの時のことを思い出してしまって――上手く喋れなくて、答えられなくて。
それからはもう、ただ顔を伏せて、震えることしかできない。
……もしかしたら、ある意味で、対人恐怖症なのかもしれない。
――いい加減、忘れないといけないのに。
俺にはどうしても、忘れることができなかった。
あの電話で。あのときの喧嘩で。順風満帆とまではいかないにしても、それなりによかったはずの俺の人生は、あっさりと詰んだ。
「はやく出てくれないかな~? ちょっと寒いんだけどな~」
まるでドラムでも叩くかのような同じリズムを扉で刻む幼馴染によって、現実に引き戻される。
そうだ。今日もなんとか家賃を踏み倒さないと。
ただ、踏み倒すなら外に出ないのが一番いいのだ。
それに――今日は、絶対に払うわけにはいかない。
「開けないなら今溜まってる家賃、三倍にして払って貰うけどな~」
前言撤回。勢いよく扉を開ける。三倍なんて払えるか!
扉の前には、俺より頭がひとつ分くらい小さい女(クソアマ)がそこにいた。
まるで味噌みたいな茶色い髪は、見ててうざったいくらいに腰まで伸びている。いい加減、切れ。
無駄に長いこの髪を切って首にでも巻けば、その辺をあるいてるおばあさんがよくつけてるようなマフラーみたいに見えるんじゃないか? という、無駄な想像をなんとなくしてみた。意味なんてない。
さらに腹が立つことに、身長が低いくせに、意味もなく胸が大きい。スイカでも入ってるんじゃないか?この無駄乳めが。そこのエネルギーをなぜ身長に回せなかったのかいつか小一時間、問い詰めたい。
そのくせ、俺と同い年なのに小学生にしか見えない顔をしている。いわゆるロリ巨乳、ってやつだ。見ているだけで顔面を殴りたくなる。全くもって忌々しい。
こういうクソ女を、世のバカ野郎共は恐らく安直に『美人』だとか、『可愛い』とか言うのだろう。
どうなってんだ、この世の中は。
「やっぱり居たんだな~! 今日こそ家賃、払ってほしいんだけどな~!!」
合法ロリ女(おさななじみ)はとんでもないことを言いながら、俺に手を出してくる。
俺はこの女の幼児体型に似合わない無駄乳から髪の色、性格、その他全てに置いて嫌悪(けんお)感(かん)を感じているが、それ以上に最もむかついていることがある。この語尾だ。
こいつは、高校のころから語尾に、「な~」、という間延びした言葉を付けている。この語尾により、聞いていてなんとなく人をイライラさせる。ソースは俺。
さらにいえば、これはただの設定であることを、幼稚園のころからの幼馴染である俺は知っている。この語尾によりなんとなくアホ感丸出しで近づき、男どもに貢(みつ)がせるのがこいつの手口だ。今までにこのファッキンクソビッチ(おさななじみ)に騙されて、バカを見た男の数は、俺の知る限りでは五十人を超える。きっと知らないところでもっといるのだろう。男も男で、よくこんな猫被りファッカー(おさななじみ)に騙されるものだ。全くわけがわからないよ。
ついでに、俺はこの小さい幼馴染が、単純な『苦手』という言葉で片付けるには難しすぎるぐらいには、天敵だと思っている。
……まぁ、少し面倒見がいいところだけは、評価できるんだけど。
「黙れ! ないものはない! 帰れ!!」
しれっと言ってやった。
だってないものは払えないじゃないか。しょうがないな、うん。
だが、いつもは引き下がる、一部分と態度だけが無駄に大きい大家が、何故かにやりとほくそ笑んだ。
くっ、なんだ、この感じ……嫌な、予感がする!
「知ってるんだな~! おばさんから届いたお金があるんだな~!」
なっ! なぜそれを!?
確かに今日、食料と共にいくらかの金が届いたところだ。
だが、なんでこいつが知っている!? 何故! どこから漏れた!?
いや、落ち着け。冷静になるんだ。
慌ててはいけない。あくまで落ち着いて切り返す。そう、あくまでシラを切れ……ッ!
「そんなものは、届いてない。そもそも、なんでお前がそんなことを知ってんだ?」
俺のクールな質問に、このクソ忌々しい女は、満面の笑みで答えやがった。
「おばさんから、さっき電話があったんだな~。今日あたりに、荷物とお金が届くって言ってたんだな~!」
実家からですか! 漏れたの、実家からですか!!
お袋ぉ……なんで、どうしてこんな悪魔に、魂を売っちまったんだ。
くそっ、世界は、あまりに理不尽すぎるぜ……
「いいから早く、1ヶ月分でも払うんだな~! おばさん、今月の家賃と他の生活費も送ったって言ってたんだな~!」
手を出しながら、殴りたいぐらいの腹立つ笑顔で催促(さいそく)してきた。
仕方ない、大人しく払うしかないようだ。忌々しい。
無言で、4万円を差し出す。
「はい、残りは今月分を含めて、9ヶ月分の借金なんだな~」
まるで、無邪気で無慈悲な子供のように、目の前の悪魔は宣告した。
ため息をつきながらも、さっき自販機で買った飲みかけのペットボトルを開ける。
「さっさと帰れよ、この悪魔め」
「酷いんだな~! 涼はもうちょっと、私に感謝するべきだと思うんだな~!!」
コーラを飲み、一息つく。
全く、なんて日だ。これだから2月は嫌いなんだ。
千早(ちはや) サキ。このクソ忌々しい女大家であり、幼稚園からの腐(くさ)れ縁(えん)でもあるこいつの名前である。
実家が隣同士で同い年、典型的な幼馴染の関係でありながら、こいつは腹黒く、二十年近く幼馴染をやっている今ですら、こいつが何を考えているのかわからないことがある。恋愛対象としてなど見れるはずもなく、俺にとっては血の繋(つな)がらない兄妹みたいなものだと思っている。悪い方の意味で。
こいつには、異常なくらいに謎が多い。いや、多いと言うレベルではない。『謎』という言葉は、こいつのためにあると言っても過言ではないくらいだろう。
そのひとつがこのアパートである。3LDKで比較的新築、さらには防音対策もばっちりで、部屋によっては、ドラムをドンドコ鳴らそうが、怒鳴り散らそうが、壁パン百発ノックをしようが、その音が一切外に漏れることがない。にも関わらず、その住民が俺と管理人であるこのクソビッチしかおらず、空き部屋がまだ六部屋もある。
不動産にも広告を出しておらず、その理由も要約すると、「いまはまだその時ではない」だそうだ。
そもそも、このアパート自体、どうやって手に入れたのかが謎で、高校卒業後、あてのない俺に「とりあえず」ということで部屋を与え、挙句、引越し費用まで出してきたのだ。家賃は破格なんてレベルじゃない四万円という驚きの値段提示をしておきながら、入手経緯を一切明かさず、「どこにこんな金があったのか」と疑問に思った。最初は事故物件を疑ったが、もともとはコンビニが立っていたそうで、経営難で潰れたところに土地を買ってアパートを建てたらしい。つまり誰も死んでない。
千早サキ七不思議のひとつである。
とにかく、そんな謎の幼馴染を持ったおかげで、家賃を払わなくても追い出されることのない家と、実家から定期的に送られてくる食糧を確保することができ、快適なニート生活を送れている。そこだけは不服だが感謝している。不服だが。
「ところで、最近ちゃんとご飯作ってるのかな~?」
「黙れ、雌豚」
どうでもいい話に花を咲かせるほど、仲がいいわけでもなく。かといって、実害もこうして家賃の取り立てをしてくるくらいだ。それすら九カ月分も滞納してるけど。
「酷いんだな~! そんなこと言うと、ごはん作ってあげないんだな~!!」
誰がお前に頼むかよ、と言いたいのをぐっと抑(おさ)える。
飯の心配は、今日届いた資金と支援物資のおかげで解決したのだ。
「おら、もう払っただろ、さっさとどけよ」
そう言いながら、つまさきに引っかけてたスニーカーを履き直す。
「あれ~? これからどこかいくのかな~?」
わざとらしく首をかしげながら、下からガンつけてくる。
実に不愉快だ。
「……はぁ」
べしっ!
なんとなく邪魔だったので、とりあえずデコピンしてみた。
「にゃああああああああああああああ!!!!!!!!!」
まるで可愛らしさを演出したかのような、わざとらしい悲鳴とともに、頭を押さえながらクソアマはしゃがみこんだ。
ざまあみやがれ。俺のデコピンは、世界一ィ!
「すごく痛いんだな~! いきなりデコピンするの、やめてほしいんだな~!!」
「そうか、なら今度から事前に宣言するようにしよう」
「そういう意味じゃないんだな~!!」
ついでに、全盛期の俺は、このデコピンだけで不良と勝負し、デコピンだけで相手が逃げ出すというある意味、とんでもない伝説を持つ。どうだ、凄いだろ!
まぁ、実は不良は不良でも、一緒につるんでたヒョロもやしを、デコピンでいじってただけだったりするんだが。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
「腹が減った。メシ買ってくるから、その間にさっさと家に帰れ」
ポケットに財布があることを確認し、家の鍵をかける。一度、扉を引いて、かかったのを確認すると、そのまま鍵をパーカーのポケットに入れた。
チビ女が頭を押さえながらも、こちらを睨(にら)みつけてくる。やーい、涙目涙目!
「ま~たコンビニ弁当なんだな~? そんなのばっかり食べてると、身体壊すんだな~!」
鼻で笑ってやった。そのまま、返答せずにアパートの階段をおりる。
俺が身体を壊したところで、誰が心配してくれるんだ。そんな物好きなんて、いやしない。
パーカーを羽織っていても、なお寒い風を浴びながら、行きつけの店(コンビニ)へと歩き始めた。
全く、これだから二月は嫌いなんだ。